すてきNo.1  バカボンのパパのすすめ。 (By 佐野元)

最近のマンガは読まなくなってしまったので新しいものは知らないけれど、昔のマンガで今だに「いいなぁー」と思うものがある。そして、今僕が再評価しているのは赤塚不二夫さんの「天才バカボン」である。
何がいいかと言えば、あのバカボンのパパの姿勢なのだ。試しにバカボンのパパになってみればいい。これはホントにおすすめなのだ。
納得できない事があってそれでもやらざるを得ない時、
自分では正しいと思っているのに人からいろいろ言われてしまったとき、
こう一言口にだしてみると不思議にすっとするのだ。
「これでいいのだ」
また、誰かに批判的な事をいったつもりでなくともそう聞こえそうな事をいってしまった時にもすごくいいのだ。
例えば、つい奥さんに「仕事してない主婦は楽だよねー」
と別に奥さんの事をいってないのだけどふと言ってしまったとき、
「わるかったね。働いてなくて」と言われる前に、すぐにこう言うのだ。
「でも、それでいいのだ」
別に全てがどーでもいいじゃないかと言っている訳じゃないのだ。
ただ、なんだかストレスが多くて、みんなイライラしているような、みんなで「急がなきゃ、急がなきゃ、」って言っているような、何が正しくて何が間違っているのか解らないような、そんな今だからこそ、そんなヨユーが必要な気がするのだ。
なんだか、「なんで日本」のコーナーの様になってしまったのだ。
そもそもこのコーナーはふと感じた日本独自の素敵な事を書くところだったのだ。でも、マンガも立派な日本の文化なのだ。
これでいいのだ。






すてきNo.2  四万十川のいい話。 (By 佐野元)

この頃はほんとにせわしない世の中である。
街の中では携帯電話を持つ人が増えた。バスや電車に乗るとすぐに電話をかける人達がいるけれど、あの人達は「何かをしていないと落ち着かない。じっとしているのが耐えられない」のではないかと思えてならない。
まぁ、確かに便利な使い方もあるのだけれど。
それから、選挙の投票率が落ちたのを嘆く人達がいるけれど、僕は或る意味では仕方がないのではないかと思う。
だって、企業や最近では地方自治体までみんなそろって「皆さん、遊べ遊べ」と言っているのだもの。
イベントやレジャーやショッピング、それから車にテレビ、BS、CS、パーフェクトTV、ビデオ、CD、スーパーファミコン、プレイステーション、パチンコ、パソコン、インターネット。忙しくてしょうがない。いったいいつ投票にいくのだ。ゆっくりボーッとしている時間さえないというのに。
まぁ、こんな事をいっている僕もその中にまきこまれつつあり、パソコンでモノを作って〆切に追われて、出来たらすぐさまインターネットで送るというせわしない生活をしているのである。もっとゆったりと時間を感じる生活になんとかしたいと思うこのごろである。
さてさて、今から5年程前に、四国の清流として有名な四万十川という川を訪ねた事がある。
高知県の西部を山中から太平洋へと200キロに渡ってクネクネと流れている川なのだが、ほんとにゆったりとした気持にさせてくれたのを憶えている。
車で下流から川沿いにずーっと源流へと行ったのだが、その間にかかっている橋の中には、両岸より低い橋がいくつもあった。昔、川をとりあえず渡ることができればと、安易にかけた橋だという。雨が降り川の水が増えれば橋は水の下に沈んでしまうので「沈下橋」とよばれているのだけど、どうせ沈んでしまうものだから、手すりもない、ほんとに狭いひょろっとした橋だった。
橋が沈めば、当然通行ができない。しかし、当時僕がもっていった四万十川について書いてある雑誌にはこう書いてあった。
「土地の人は、"昔は雨が降ってまで仕事だのなんだのと、向こう岸まで急いで行く必要なんてなかったのね。学校も休みになったしね"、と言う」
いい話、だよね。






すてきNo.3  方言はカッコ悪いものではない、むしろカッコいい。 (By 佐野元)

何も、単純に「地方は地方の独特の文化があるからええんじゃい」ということを書こうとしている訳ではありません。
実は最近、新潮文庫の「全国アホ・バカ分布考」(松本修/著)という本を読んで、おおきく感動したわけです。
「日本におけるアホとバカを使う境界線は何処か?」という事から始まって、全国のアホバカ表現(フリムン、ホンジナシ、タクラダ、ホウケ、ダラ、ダボ、テレ、コケ、ゴジャ、ボケ、バカ、タワケ、トロイ、ウトイ、アンゴウ、アヤカリ、ノクテー、アホ、etc..)のルーツを探って行くというものなのだけれど、これが目からうろこがポロポロ落ちる落ちる。
「これらの表現はすべてもともと昔、都(みやこ)で順番に使われて流行った言葉である」という事。
「日本の東西に向かって順番に流れて行った言葉であった」ということ。
「だから京都を中心に、東西へほぼ等距離に同じ様な言葉が残っている」という事。
「つまり、バカはアホよりも古い言葉である」ということ。
僕は今まで、方言というのはその地方で独自に生まれてきたものだと思っていた。バカという言葉も東京で使われているせいか、比較的新しいものではないかと思っていた。しかし、それが違ったのだ。
昔、京都は最先端の町で、そこで使われる言葉がじわじわと、最先端の言葉として東西に広がって使われて行く。で、その土地で何年にも渡って使われて定着する。しばらくしてまた新しい別の言葉が京都からじわじわ広がっていく。当時はテレビも新聞もないからじわじわと。うーん、なんてすごいんだろうか。
つまり、今僕らが、「東京で使われているからチョベリバッ」「今アメリカで流行ってるからラップミユージック」と言っているのと同じように「京都ではこんなときフーケモンと言うらしかぁ」なんてやっていたのかと思うと何だか楽しくなってくる。
日本語の奥深さと柔軟さと素敵さが見えてくる。
だから、「僕らのこの土地の方言は古くさくてヤンダなぁ」と思っている人はもっと誇りを持ちましょう。かつての最先端の言葉が残っているのだと。
さて、「全国アホ・バカ分布考」という本。かといって別に堅い学術書などではなく、「全国アホ・バカの境界線を探す」と云う企画自体もともと著者がディレクターをしているテレビ番組から始まったもの。
まるで、推理小説を読んで行くみたいに「どうなるどうなる」と一気に読めてしまうおすすめの一冊です。
ちなみに神戸生まれの僕は子供の頃、普段は「アホ」、めちゃくちゃハラがたったら「ダボー」と叫んでいました。






すてきNo.4  かつて年をとることは素晴らしい事であった。 (By 佐野元)

今は「トシをとる」という事はどちらかというとマイナスイメージがつきまとう。なにせ若者文化まっさかりである。
大人は「最近の若者は」と相変わらずいいながら、勤めている会社のターゲットは若者だったりする。
そして待っているのは「老後」である。
老後やで、老後。
考えてみればこの言葉は非常にかなしい。なにせ後(あと)である。まるで世間のじゃまものじゃないか。
こんな風に若いと偉くて、年をとると何もないという様な考えのまかり通る社会はやっぱり何か変なのではないだろうか。「おじん(おばん)はすっこんどいて」という若者はもちろん変だけど、「そうやな。やだなぁ、年とってしまうと」とすっこんでしまう方もしまう方である。
このことについてはいずれ「なんで日本」で言及してみよう。
さて、そんな今の日本だけれど、かつてはそうではなかったみたいだ。江戸・明治・大正、いや戦前まではそうだったのだろうか。そう言えば落語に出てくるご隠居は、何かと周囲にたよりにされている。年をとるのは「年を重ねる」といって周囲の尊敬に値するものだったようだ。
年を重ねる。いい言葉ではないですか。
もちろん年をとると物憶えも悪くなる。体力もおちる。しかし、体力がなくなっていくのは半分は自分のせいでもある。だけど、考えてみれば、年をとらないと解らない事もたくさんある。人の哀しみや喜びを解ってあげられる「心のひだ」の様なものはやっぱり年を重ねないとなかなか解らない。
だからみなさんもう「もう、年をとってあかんわ」なんて事をいうのはやめましょう。自信と誇りをもって、かつての日本人のように「僕もいい年を重ねた年寄りに早くなりたいですね」と言おうではありませんか。






すてきNo.5  お地蔵さんのもう一つの役割。 (By 佐野元)

子供のころ、毎年地蔵盆が楽しみでした。僕の住んでいたところは町中だったけれど、でも毎年近くのお地蔵さんで地蔵盆がひらかれていました。そう、地蔵盆にいくと「お菓子」が貰えるのです。それが嬉しくて嬉しくて、地蔵盆は、正月とお盆とクリスマスとお誕生日に並んで大好きなイベントでした。
さて、そのお地蔵さんに関する最近聞いた話し。昔、お地蔵さんは街道沿いなどに奉られていました。お地蔵さんは子供や旅人を守るといわれ、近くの人達はお地蔵さんを大切にして、食べ物をお供えをするのです。
で、そのお供え。
昔の旅は徒歩です。時には行き倒れなんて事もあったようです。腹がへってどうしようもなく、もう一歩も歩けない、そんな事だってあったにちがいありません。で、そんな時、近くにお地蔵さんがあったとしたら、そのお供えを食べてもよかったらしいのです。それは許されていたのです。バチがあたったりはしないのです。
なんかいいですねぇ。そういうのって。昔は人にやさしい社会がちゃんとあったのです。






すてきNo.6  気持ちにやさしい社会。 (By 佐野元)

いったいなんという名前のの制度だったのかは忘れたのだけれど、江戸時代の初期にこんな制度があったらしい。

昔の武家では「嫁」は「家」の都合で一方的に離縁されてしまう事があった。「嫁」の側は文句を言えずそれに従うしかなかった。今から考えれば理不尽な話しで、「嫁」の気持などは無視である。「家」がダイジな時代ならではである。

ただ、ちゃんとその「嫁の気持」を救う制度もあったそうだ。
「嫁」が申し立てをして、もしそれがお上に認められれば、「嫁」はその「家」に「討ち入り」をする事が出来るのだ。その「家」に入っていって、しっちゃかめっちゃかに暴れて、モノを壊して、ウサを晴らす事が出来るのだ。
「家」の者は「お上の決めた事」には逆らえないので、それを受け入れるしかないそうだ。

これはきっと「嫁」はスッキリするに違いない。
そうやってスッキリして、また新しい人生を歩みなさい、と言うことなのだろう。

ふと思う。
今、そんな「人の気持ちを救う」制度がどれだけあるのだろう。なんだかスッキリしない事だらけである。
「強制する制度」があるなら、やっぱり「気持ちを救う制度」が必要だろう。

今と昔、どちらが「進んでいる」のか、最近ちょっと考える。






すてきNo.7  合理的でかしこい社会 (By 佐野元)

これは確か、かなり昔の話しである。万葉のころだったと思う。「ニセ金つくり」という犯罪はやっぱりその頃からあったそうだ。日本人は基本的に手先が器用だから巧妙なニセ金はあったのだろうな。
で、である。そういう犯罪者を捕まえたら、その後どうしたのか?
これは結構有名な話しだから知っている方も多いはず。

そう、「本当の貨幣つくり」をさせるのである。

これは合理的だ。何せ技術はある。即、戦力だ。罪のつぐないだから賃金もいらないだろう。もしかしたら更正にも役にたつかもしれない。だって、イイコトをして世の中の役に立っている訳だ。

非常にかしこい社会のサイクルを作っている気がする。シンプルだし。

もちろん今は当時に比べていろいろと複雑で、同じような事はできないかもしれない。でも、なんだかわざわざややこしい風にしているとしか思えない事が多いなぁ。今は。

日本人という人種、今と昔とどっちがカシコイのか、まだちょっと考えている。






なんでNo.8  バカボンのすすめ (By 佐野元)

なんとなく思うのは、「日本人ってスレちゃったんじゃないかなぁ」という事です。「日本人ってひねくれちゃったんじゃないかなぁ」ということです。自分も含めてね。
もっとこう以前は、純朴でまっすぐなところのある国民だったのではないのかなぁ、なんて思います。もちろん、今でもそういう地域もあるのだろうけれども、少なくとも都会ではそんな感じがします。

んで、バカボンなのです。

あの純粋無垢なこころ。素直な反応。豊かな感情表現。生きているヨロコビ。なんとなく家族に誇りをもっている芯の強さ。
あれがいいんじゃないか、そんな事思わせてくれます。

今こそ、バカボンなのです。以前、「バカボンのパパがいい」と書きましたが、これからは「バカボン」 なのです。