No.1〜No.9
(1996年〜1997年ごろ)



なんでNo.1  そろそろJAPANをNIPPONに。 (By 佐野元)

夏、アトランタオリンピックを見ていてふと思った事がある。それは、なんで日本の事をJAPANのままにしているんだろうかということ。
たしか、1970年に政府は日本の呼称を「ニッポン」に統一したはずである。
じゃ、どうして表記をすべてNIPPONにしないのだろう。海外に向けても「NIPPONにしましたのでみなさんもそう呼んでください」と言わないんだろう。
たしかにJAPANというのも別に悪くない。僕だって文字の感じや言葉の響きが好きだ。慣れ親しんでいるというのもある。折角浸透しているものをことさら換えなくてもいいじゃないかという言い分も解る。
でもよく考えたらおかしいよなぁ。
もともとはジパングという呼び間違いから来ているのでしょう?
例えば、あなたが「吉川文子(きっかわあやこ)」さんだったとしましょう。
周囲のみんなは読み間違えて「よしかわふみこ」と呼んだとしましょう。
わざとそう呼んでもらいたい場合は別にして、普通は「わたしキッカワアヤコなんですよ」と言うはずです。
僕だったら言うなぁ。間違いはしかたないにしても。
それなのに吉川文子さんが自分で「よしかわふみこ」と書いたシャツを来て喜んでいる、なんかそんな感じじゃないだろうか。
僕らはこの国の事をニッポンだと思っているし、そう呼んでいるのけれど、
外国人に「僕はNIPPONからきました」と言っても ほとんどの人が日本の事だとは解らないだろう。
「オウ。ニッポン?ソレハドコノクニダ?ジャパンノチカクカイ?」と聞かれてしまうかもしれない。本名で言って解ってもらえない、なんかいやだなぁ。自己の誇りはどうなるのだろう。
それに、なんか外に向かっては「あ、ジャパンですはいはい私はジャパンです」と言って置きながら、
「ほんとはニッポンじゃ」なんて言うのは何だか"内ヅラ外ヅラ"大好き日本、あやふやなままほったらかしててもちっとも平気な日本、って感じがして、やっばりイヤだなぁ。僕は。
NIPPON。これはこれでカッコいいじゃないか。
もうすぐ21世紀。2001年を境にして、世界的に正式な表記を「NIPPON」にしてもらいましょうよ。
ところで、もしNIPPONになったとしたら、「日本人」や「日本の〜」というのはどうなるのだろう。
Nipponianでいいのだろうか。






なんでNo.2  静かでさわやかな選挙戦をしてください。 (By 佐野元)

先日、衆議院選挙がおこなわれた。「なんだかなー」と思いながらも投票に行ってきた。で、結果をみてやっぱり「なんだかなー」と思ってしまった。
まあ、「投票率の悪さ」とか「新制度の解らなさ」とかは、僕がここで言うまでもないのであえて触れないけれど、僕が選挙の度に「なんで?」と思うのは、あの選挙戦だ。
街中で大音量のスピーカーで走り回るあのやかましい「選挙カー」。あれ、なんとかならないのだろうか。
秋の気持のいい昼下がりは窓をあけて過ごしている。だから、あれが通ると電話で話も出来ない。テレビやラジオも聴こえない。「おさわがせして申し訳ありません」と言われるとよけいにイヤな気分になる。
あれって、「足をふんでごめんねー」と言いながらおもいっきり足を踏んでいるのと同じじゃないだろうか?
それと、あの駅前なんかでやっている街頭演説。やかましさもさることながら、聞いていて何かイヤな気分になるのは僕だけだろうか?
何がひっかかるかと言えば、あの「他党批判」だ。ひどい時には名指しでえんえんと、けちょんけちょんに言っている。
僕が子供のころ、「○○くんが悪いねん。○○くんはあかんねん」とひつこく言っていたら、親に「人の悪口は言いなはんな! 人の事はほっとき! 自分が正しい事しとったらええんや! 」と叱られたものである。
「○○くんのせいでこうなってん」と言ったら、「人のせいにしなはんな! お前はどうなんや! 」と怒られたものである。あの人達はそういうしかられ方をしなかったのだろうか?
もちろん「批判」する事自体はいけない事ではないし、それが出来ない世の中もそれはそれでこわい。でも、えんえんとそればっかりというのもやっぱり気分が悪いのだ。町中では子供達だって聞いているのだから。
例えば、「今の○○党は頑張っていると思います。○○さんの政治理念も素晴らしいと思います。しかし、力及ばずだと思います。私△△と△△党は、こーやって、あーやって、それ以上に頑張りたいと思いますので、よろしくっ」なんてさわやかで簡潔な演説をする人がいれば、
僕などは一票投じてあげてもいいかなと、思ったりするのだけど。
それにしても、他の人はそういう事は気にならないのだろうか?
「そんなもんや。気にしてもしゃあないやん」と思っているのだろうか。それなら「政治に無関心なフヌケばっかりの方がやりやすいわい。ふふふ」と思っている人達の思うツボではないのかなぁ。






なんでNo.3  スポーツ中継のアナウンサーのみなさんへ。 (By 佐野元)

しばらく前に、テレビでアナウンサーの舞台裏の様子をやっている番組があった。特に、スポーツ中継のアナウンサーには「おぉ、さすがにプロ」と思ってしまった。
ピッチャーの球が手から離れるタイミングを的確に読みながらしゃべる、プロ野球のアナウンサー。
双眼鏡片手に全体と部分を追っ掛けながら一分に800文字しゃべる、競馬のアナウンサー。
「うーん。さすがにしゃべるプロだー」と感心した。
だだ、最近ちょっとスポーツ中継のアナウンスを聴いていて「うーん」と思う事がある。
一つ目。なんでこの頃のスポーツ中継のアナウンスは絶叫型が多いのだろう。
どれを聴いてもみんなプロレス中継みたいに聞こえたりする。
ひどい場合はやかましくて何を言っているのか聞こえなかったりする。耳もいたい。
二つ目。やたらと形容詞や主観をくっつけるアナウンサーがいる。
これもプロレス中継に近い。「因縁のこの大阪府立体育館でお前をマットに沈めてやるぞと再度挑戦状をたたきつけたこのファイナルバトルで今何を思うのか、おっーーっとジャーマンスープレックスーー」ほとんどこんな感じのアナウンスを他のスポーツでも聞くことがある。
去年のアトランタオリンピックの女子マラソンの中継。ロバ、エゴロワ、有森の順番になった時のこと。実況の女性アナウンサーがこう言った。「どうしてあの時追いかけなかったのかと後悔しているかもしれません。しかし、すんだ事を後悔しても仕方あません。有森」おいおいおい。なんでお前がそんな事いうねん。なんで自分で上げて、自分で落とすねん。
もう少し静かに見せてもらえないのだろうか。確かにマラソンの様に変化の少ないスポーツでは、退屈させてはいけないと思ってしゃべるのだろうけど、それならば、あらかじめ取材をして有森さんの後ろに見える建物のこととか、道路脇で見ているアトランタの人達の気質とかそんな事を言ってもらったほうがいい。もしくは、何も言わなくても、選手の表情とかでなんとなく状態が解ったりするのだ。でもって、ポイントポイントで状況をきちんと上手く説明してくれればそれでいいと思う。ムリヤリしゃべらなくてはと思わなくていいんだよ。だってテレビだもん。もっと映像の力を信じてもいいのに。
これも以前テレビで誰かが言っていたこと。その人は一昨年のドジャースのリーグ優勝をアメリカの放送でみていたそうだ。で、優勝の瞬間とその後しばらくの放映を見ていて「あれっ」と思ったそうだ。
日本の中継ならこういう時は、「オリックスーーーーゆうしょーーーーーーーーっ。今マウンドに選手達がかけよります!ひとり!ふたり!あの、あの震災を乗り越えて、神戸に希望の明りを今ともしましたー。」なんて放送終了までしゃべり続けるものである。ところが、その放送では優勝の瞬間に叫んだだけでその後はずっと黙って、駆け寄り握手する選手や狂喜する観客をだだ写しているだけであったそうである。すると、歓声からその場の雰囲気が伝わり、映し出される選手の表情やしぐさから、それぞれのドラマを集中して感じる事が出来て、非常に感動的であったというのだ。そうかもしれない。
映像というものはそれだけで力があるものなのです。だから、とにかくしゃべらなければというのではなく、もっと映像と音のバランスの妙で、テレビ放送をすばらしいものにしてほしいのです。アナウンサーの皆さん。






なんでNo.4  お金をもらうお偉いさん。 (By yamo)

この頃お偉いさんの賄賂の話がよく聞かれます。
お金をもらって、その見返りとして何か職務の方で都合をつけてあげたりするのが賄賂の形です。
いつも思うのですが、お金をもらった人はなんで律儀に言うことを聞いてしまうのでしょうか。
だいたい捜査でも「不自然な認可」とか「不自然な人事」とか、やったことが怪しくてばれてしまいます。
いっそのことお金だけもらって、やるべきことは何もしないで、万が一ばれてしまっても「ははは、そんなお金は知らないよ」なんてごまかしてみたらどうでしょう。
そうしたら自分の手元にお金だけ残ってかなり得だと思うのですが。
でもそんな人のところには1回しか賄賂がいかないですね。
だから言うことを聞いちゃうのかな。






なんでNo.5  おサルさんに気をつけろ。 (By 佐野元)

3月30日のうららかな午後。のんびりと、おだやかに、テレビで競馬を見ていた。
メインレースの大阪杯、一番人気のマーベラスサンデーという馬が人気どうりに一番でゴールをつきぬけようとした。その時である。観客スタンドからコースに物が投げられたのだ。これは危ない。馬も驚く。幸い何事もなくマーベラスはゴールしたのだが、騎上していた武豊騎手も勝利者インタビューで「ああいう事は絶対にやめてほしいです!」と怒っていた。なんて事をするヒトがいるのだろうかと、思った人も多いと思う。だけど、僕は知っている。あれをしたのはヒトではない。あれはおそらく「おサルさん」の仕業なのだ。
最近、あちこちで「おサルさん」を見かけるようになった。「おサルさん」に注意はきかない。「電車の中での携帯電話のご使用はおやめください」といっても無駄である。「ウキキキッ」と電車に乗るなり電話かけて、「ウキッ」と大きな声で話をするのである。なにせ人間の言葉がわからないのだから仕方がない。
禁煙のホームでも平気でタバコを吸う。しかも喫煙コーナーは別にキチンとあっても、そこには行かずにどっかのベンチで「ウキー」と座って「ウキキー」とタバコを吸って吸殻をポイッと捨てる。なにせ「禁煙」の文字も「喫煙コーナー」の文字も読めないのだから仕方がない。とにかく「おサルさん」は何か憶えると、もう止まらないのである。「ウキキッ」と電話をしてしまうのである。なにせ「おサルさん」なのだもの。
しかし、迷惑するのは回りの「ヒト」と、キチンとマナーを守って電話やタバコを使っている「ヒト」である。ホントに困ってしまう。
それから、「おサルさん」は押並べてせっかちである。信号が赤から青になって、前の車が少しでもモタモタしていると、車にのっている「おサルさん」はもう「ウキーッ」と怒ってしまってクラクションをププーと鳴らしてしまう。前の車が「初心者マーク」であっても。また、電車の切符売り場で前の人が少しでもモタモタしているともう「ウキキキキキキキ」と怒鳴ってしまう。前の人が「お年寄り」であっても。とにかく「おサルさん」は「待てない」のだ。
はやく、この「おサルさん」たちを何とかして欲しいのだけれど、国の偉いトコロにいるのも半分くらいは「おサルさん」なのでこれはもうどうしようもない。お金をもらうと「ウキキキィ」と喜んでしまう「おサルさん」がこんなにいては手遅れだ。ああ。
そうそう、もう一つ「おサルさん」の得意芸があった。「おサルさん」は他の「おサルさん」のする事に対しては非常に怒るという事だ。自分が「おサルさん」なら、他の「おサルさん」のする事は許せばいいのに、それとこれとは別らしい。「ウキキキキッ」とやられると「ウキキキー」と怒るのである。
という事はだ、こうやって「おサルさん」の事を怒っている僕ももしかしたら「おサルさん」になってしまうかもしれないという事だ。
ああ、いやだ。「おサルさん」にはなりたくない。絶対になんとしてもいやだ。気をつけよう。充分に注意して「おサルさん」にはならずにいよう。やっぱり僕は「ヒト」がいい。みんなも「ヒト」でいてください。






なんでNo.6  企業の皆さんへ、ゴミの事 (By 佐野 元)

10年使ってきたラジカセがとうとうイケナイ。まず、時々電源がフッと切れてしまうようになった。そういう時は後ろのコンセントの差込みを持って、上下に動かしてやると復活する。次に時々左のスピーカーが鳴らなくなった。そういう時はバンド切り替えのスイッチをもって、力をいれて、キューッと決まった方向に引っ張ると復活する。そして、最近は音が割れるようになった。派手なロックをかけるともう体全体でバリバリと響くようになった。アンテナは途中から折れているし、テープの回転はおかしいし、自動頭だしはもう効かない。いよいよダメになってきた。さて、電気屋にこれを持って行ったとしよう。きっとこう言われる。「修理ですかぁ。うーん。これならもう買ったほうが安いですよぉ」と。
じゃあ、どうするか?やっぱり荒ゴミの日に捨ててしまうしかないのである。
だけど最近ホントに、特に電化製品を捨てる時になんかイヤな気がするのだ。
一つは、この中にまだまだ使えるものが残っているという事。プラスチック、金属、磁石、ネジ、ビス。それらが他のゴミと一度くしゃぐしゃになったり、そのままどっかに埋め立てられたりするのはどうも忍びない。
二つ目は、そうやってしかたなしにゴミを増やす事に荷担している自分がイヤになる事である。
ゴミ廃棄場がなくなって行く。いつか破綻したら、その責任の一部は僕にもあるわけだ。
世の中には時々「そんなものさ」と言うのが好きな変に現実主義の人がいて、「資本主義の社会で生きている以上そういうのはしかたないでしょう。あなた、普段快適な生活を送っている訳でしょう。ゴミがいやなら、そういうゴミと関係ない暮らしをしたらいいではないですか。できないでしょう?文明がある以上ゴミは仕方ないんですよ。そんな事気にしていたら仕方がないでしょう」とミもフタもないことを言う。いや、そんな事を言う人は現実にはいないかもしれないけれど、なるべく考えないようにしている人たちはやっぱりいる。
でも、僕は考えてしまうなぁ。
さて、買って捨てた僕に責任があるとして、じゃあ、派手な広告をして心をそそって売った企業にはなんの責任もないのだろうか?よく一時期「消費者のニーズがありますから」という言葉を耳にしたけれど、まさか「ニーズがあったから売っただけで、別に売りたくって売ったわけではありません」とは言わないですよね。
売った以上企業側にも何等かの責任があると思っていらっしゃいますよね。
そして、今、消費者に「捨てるのってなんかイヤだなぁ」というニーズがあればそれにもちゃんと応えてくれる訳ですよね。
例えば、今、このラジカセ。とあるメーカーのモノだけれど、車で10分くらいの所にそのメーカーの営業所がある。その営業所にこのラジカセを持って行って「これ、引きとってくださいっ」と言えば引きとってくれるのだろうか?実際やっていないので解らないけれど、おそらくは「ちょっと業務外ですので困ります」と言われてしまうと思う。
何が言いたいかというと、そういう所で引きとってくれるシステムを早く作って欲しいと云うことなのだ。
各地にそういう窓口をもうけて、自社の過去の製品は引き取る。お金を払うのはコストがかかるから、何かプレミアムグッズのあまったのをプレゼントするとか、いくらでも持ってきてもらう為の手立てはあるはず。
で、その引き取った製品の中の部品で使えるものを新製品へ回せばコストも下がる筈である。
仲々すぐには、とお思いかもしれませんが、これは早くやったところがカッコいいですよ。CMでドカンと「我が社の過去の製品が使えなくなったら、全国のリサイクル窓口リターンプラザへ。我が社は地球と共に生きています」とやったらそれはそれは企業イメージがよくなります。どっかがやって評判になれば他はすぐにマネをするので、最初にやらないとぜんぜん目立ちません。ほんと早いもの勝ちだとおもうのですが。
それから、直接は関係ないサービス業の人たちへ。
百貨店・スーパーで、ワンフロアをリサイクルフロアにするというのはいかがでしょう。そこに使えなくなったものを持って行くと引き取ってくれる。どのメーカーのものでもOK。その店の商品券とか貰えるといい。引き取ったものは自社独自のリサイクルファクトリーに運んで、修理して使えるものは修理する。そして、またフロアに持って行って安く売る。使えなくなったものを持って行った人は、ついでに買い物をする。リサイクルフロア意外でもお金を落していく。修理できないものはバラして、中の使える部品だけを選別して中古部品として企業や個人に安く売ればいい。
それから、全国規模のチェーンを持つ、レンタルビデオショップさんへ。
別資本で、全国チェーンのリサイクルショップを作ってみませんか?そのチェーン網の力を利用して駅前に一件。業種が業種なので、ラジカセやテレビ・ビデオのAV機器だけでもいいです。そこに持って行くとレンタルビデオのサービス券をもらえるといい。で、そうやって引き取ったAV機器をバラしてその余った部品で安価でオリジナルのCDプレーヤーやビデオを作ってしまえばどうでしょう。若者にもすぐに買える値段をつけて。
以上、実際の事情や仕組みや規制などつゆも知らない素人が絵にモチを描いてみました。
しかし、絵にかいたモチを食べる事のできるモチに出来るかどうかはあなたがたの力にかかってます。
そして、たぶんおそらく、いつかこんな産業が大きくなるような気がします。
そのときドカンと乗れるかどうかは今にかかっている気がするのですが、いかがでしょう、SさんNさんSさんMさんSさんTさんDさんIさんSさんTさん。
出来る事なら、僕がこのラジカセを捨ててしまうまでにお願いします。






なんでNo.7  昼間来る勧誘・販売の人達へ (By 佐野 元)

僕はフリーランスで、昼は自宅で仕事をしている。
すると昼間チャイムを鳴らす人たちがいる。
やって来る来る。宗教勧誘・訪問販売・新聞屋さん。
「ニコニコしながら水質検査の紙を手にグイグイ部屋に入ろうとすんな」とか、
「むりやり小冊子を置いて行かれても読まずに捨ててしまうのに。
幸福や倫理を追及しているならば、そうやってゴミを増やす事はどう考えているのか。人類としての不幸を広げないのか、現代の倫理に反さないのか」
なぁんて、言いたい事はあるのだけど、それよりももっと単純に思う事はただ一つ。

「わざわざこなくてもいいって。用があったら呼ぶから」






なんでNo.8  銀行のみなさんへ。絵がみたいのです。 (By 佐野元)

今日は先日テレビで見た絵画の話をしたいのです。
NHKの「バブル美術館〜負債1兆円・絵画投機始末記」という番組で見た話です。
バブルの時期、87年から90年の間に、日本の画商や企業や金融関係が大金はたいてボコボコ買った絵画の話です。
それも展示する目的ではなく、投機としてかった絵画の話です。
「これを30億でかったら、しばらくすると40億くらいの価値になるからその時に売って、10億のもうけでうひゃひやひやひやひやひや」なんて不順な動機で買った絵画の話です。
聞いてくださいね。

今、その絵画がどんどん海外に戻っていっているらしいのです。
といのも、バブルはじけて所有していたオーナーが破産して、担保として銀行にどんどん引き取られて、銀行は銀行で倉庫に絵画を保管しているのだけど、銀行もいろいろ不良債券とか抱えているから、お金に換えるべく海外に少しづつ売っているらしいのです。
それが、買った金額の半額以下の値段で売っているらしいのです。

ところが、買う海外の画商がシビアなプロです。ホントに価値のない絵画は買いません。
同じゴーギャンの作品でも価値のあるのとないのがあるらしいのです。
一方、銀行の人達はホントの価値が解らないから、スゴイ絵画も安くで売ったりしているのです。
少しでもお金欲しいですから。
どれがいい絵でどれがたいしたことない絵かの区別がつかないのですね。
スイスの画商の話しでは、「オークションにかければ8億の価値のものが6億で買えた」そうです。

そのスイスの画商の人は、バブルの頃に日本から来た画商に大量の絵を売ったそうです。
その人のところは日本人好みのピカソとかミロとかあったので、ドカドカ日本人がやってきたそうです。
「へんだな」と思ったけれど、「向こうもプロだから大丈夫だろう」と思って、ドンドン売ったそうです。
その人は今、その儲けたお金で、長年の夢だった自分の美術館を建てているそうです。
そこでは価値のある、すばらしい絵画を展示しようと、今日本にある絵画をどんどん買い戻しているのです。しかも、売った価格よりも安い値段でです。手元には何億のもうけと、帰ってきた絵が残ると言うことですね。

何をやってんねん日本人は、ほんまにー。
あ、ゴメンなさい言葉が乱れてしまいましたワタシ。

しかし、絵の為には、ホントに価値の解る人に所有してもらってみんなに見てもらった方が、絶対にシアワセなので、きっといい事なんですね。損する方がおばか様なんですね。
その人に言わせると「絵画は投機の目的で購入するとヤケドをする。絵画の事を研究して、本当に価値のある絵画を購入するのが、絵画のオーナーの役目」らしいですからね。

そんな風に今、日本にはそんな絵画がアチコチに眠っていて、中には「今世紀最大級の価値ある絵画」もあるらしいのですよ。それらは一度も展示されることなく、虎視眈眈と価格の下がるのを待っている海外の画商に買われていく運命にあるのだそうです。
そして、日本にはあまり価値がないのに大枚はたいて買ったおカスちゃんの絵画が残るのですね。

ほんまに。
何やっとんじゃー。当時、最高金額で買った絵画が100億やって?
それが半分くらいの価格で里がえり?
で、今ほとんどの企業が赤字やて?
ほんまにあきれかえるほどのア・・、
あら、ゴメンなさい。公の場所でこんな口きいてはいけませんね。

とにかく済んだ事は仕方ありません。お金がないなら売りましょう。
価値のわかるところに価値のあるものを売る、至極当然のオトナの行為ですものね。

でもですね、全部売ってしまう前にひとつお願いがあるのです。

銀行のみなさん。
今そうやって眠っている絵画を一同に集めて展覧会をやってくださいよ。
中にはすごく価値のある(金銭的な事だけでなく、希少であるとか作品性的にも)絵画もあるというではないですか。今後、再び日本に招いたりしたらそれこそかなりのお金がかかるのではないのですか。
芸術という文化を満喫するという意味ではこんないい機会を、日ごろお世話になっている預金者のみなさんに与えてくれてもいいではないですか。せっかく今ソコにあるんですもの。ワタシなら2500円でも見にいってもいいと思います。
そして、うまくプロデュースすると、もしかしたらかなりの収益をあげる事ができるかもしれませんわ。
美術展としても希少な絵画の集大成と言うことで、史上にのこる大絵画展になると思うのですけれど。
画集にして出版するのもいいかもしれませんね。

でも、こんな私でも考えられる事ですもの、かしこい銀行の方々ならすでに考えていらっしゃるわね。
なのに、実現しないという事は、もしかして、「そんな事をしたら恥をさらす」とお思いなのでしょうか?
まさか、きっとそんな事はありませんわね。文化って大切なものですもの。お客さまへのサービスを第一に考えてくださる方達ですもの。そんな了見のせまい事をまさか考えたりしませんわ、きっと。ほほほほほほ。

ですから、お願いです。
絵をみせてください。






なんでNo.9  実のところ、実印ってなんなの? (By 佐野元)

震災後、ずっと仮設住宅にいた実家の家族がようやく新居に移る事になった。で、それにあたって僕も力になるべく、何やかんやと実印を使う機会があった。
しかしまぁ、何といったらいいのか、つくづく実印って何なんだ、と思ってしまった。
不動産屋、銀行、マンション会社、もうアチコチでポコポコペタペタ押しまくる。捨て印、割り印、これでもかこれでもかである。実印の大安売りである。ぜんぜん貴重なものという気がしなくなってありがたみがない。

もっとこう、実印はもう最後の最後まで登場せず、ここでハンを押したらもう後戻りできませんよ、ってなところで最後に全ての契約の証明として、「それでは」「はい、それでは」なんて感じにおごそかに「トン」と押す。そういうのなら解るけれど、もうあんたボコボコボコボコペタペタペタペタ。大事なんか大事でないんかもうほんとにこの国の解らんトコロ。

もちろん、登録したハンを使うという事で契約の安全と信頼を計るというのもわかる。しかし、実際不動産などの契約をしたことのある人ならわかると思うけれど、もうハンを押す箇所の数がハンパじゃない。名義が共有だったりするともう大変で、不動産屋さんと手分けして押したりするのである。
そのとき、悪い人だったりしてドサクサにまぎれて何かにハンを押されても、おそらく気がつかない。また、ハンと同時に「印鑑証明」が必要なものもあるけれど、これだって結構いいかげんなものである。
委任状さえあれば発行してくれるのである。別に本人への確認も委任状の筆跡鑑定もないのである。
つまり、一応法的なお墨付があるけど、結構あいまいなままの証明のシルシなのである。
いっそのこと拇印にすればマチガイないのになぁ、と思ったりする。

で、だ。そんなけっこういいかげんな実印、ハンコ屋さんでケッコウな値段で売ってたりする。
「開運」とかなんとかって言って、うん万円したりする。なんなんだろう、これは。「開運」の実印を使って、だまされて大変な目にあった人も世間にはいると思うのだけれどなあ。しかも、ペタンと押してみればたいていがなんて書いているのか解らないイミフメーな、ぐにゃぐにゃっとした文字なのである。それでどうして本人の証明になるのよ。ホント。

ちなみに、僕の登録している実印は、むかーしに買った500円くらいの三文判である。ハッキリと「佐野」と読めるのである。まぁ、そのままではあまりにあまりなので、自分でカッターを使って切り込みを数カ所いれて一応は「世界でひとつ」のハンコにしている。でも、それでもなんの問題もないし、そのせいで運が悪くなったともおもえない。「そんなもしかしたらどっかで手に入るハンコつかったらコワイやん」と言われるかも知れないけれど、もともと完ぺきでない実印だもの、悪用されるときはちゃんとしたのを使っていても悪用されるのだ。
今のところ僕の実印が悪用された知らせはない。

まぁ別に好みなので「うん万円」の実印を使ったところで悪くはないけれど、僕が今回この実印を使ってて楽しかった事がある。契約の際に父・母の「うん万円」するハンコと並んで僕の「500円」のハンコがポコポコ押されていくのだ。なんだか名もない無名の兵隊が、重装備の戦士と同等に肩をならべて戦っているようで非常にタノモシク思えたのだ。そうやって無事契約を終えて、そのハンコを眺めながら「まぁ、結局はこういうことなのね」と思ったのだ。

とにかくもう無意味にハンコばっかりの社会、いいかげんやめようよぉ。