No.10〜No.17
(1997年〜2000年ごろ)



なんでNo.10  男はどうして大人になると肩を組まなくなるのか (By 佐野 元)

小学生の頃、休み時間になると運動場に出て、野球やドッチボールなどやったものだ。
気の合う友達とわぁわぁきゃぁきゃあ遊んでいると、あっという間にチャイムがなって、そして、教室に帰る。
そのときよく肩をくんで「おまえなーはははは」とか言いながら帰ってきたりした。それが仲よしのしるしだったりした。

さて、おとなになると、なぜか肩を組まなくなるのだ、男同志は。
女性の場合、結構大人になっても女同志で腕を組んだり、服をつかんだりしているが、男は酔っ払った時以外は、まず、ナイ。
中には触っただけで「ピクッ」と反応する人だっている。
別に僕がホモでない事くらい解っているはずなのに。
なぜなんだろう?ふと考えてみた。

地球上の男がみんなそうなのだろうか?
いや、そうじゃない。欧米の人などは男どうしでも親しみを込めてよく触れ合ったりする。久々に会えば抱き合い、励ます時は肩に触り、別れる時は握手をして仲よしのしるしを確かめ合っている。その時、目下も目上もなかったりする。
では、日本人は武士道に乗っ取り、男たるものベタベタとしないのをヨシとしているのだろうか? いや、そんな心からパシッとした男は今はあまりいない気がするなぁ。最近ニュースで見る事は、武士道とは程遠いものなぁ。
つまりは、「触って気安くなりましょう」の社会と、「気安くさわるなてめぇ」の社会の違いなのだろうかなぁ。

しかし、大人の男が特にそうだという事は、つまり大人の男の社会ってのが、「ほんとの仲よしがいない」って事なんだろかなぁ。
なんか色々気にして、ビクビクしてる感じだなぁ。
そんでもってサミシイから奥さんにはベタベタなんかもなぁ。

特に会社ってとこがそうなのかもなぁ。
目下が目上に触れないものなぁ。
「よっ、社長。僕、社長が大好きやぁ」といいながら肩を組んだりしたら、「なんやコイツは」と思われちゃうんだろなぁ。
了見せまいなぁ。
で、目上は目下にさわり放題だったりするのかなぁ。
セクハラだなぁ。
ほんとになんか窮屈だなぁ。
窮屈ならいっそ武士道くらいバシッとして、「会社の長たるもの悪しき事はせず」と金銭の授受などしないでいて欲しいなぁ。
なんか半端だなぁ。
で、酔っ払ったらベタベタ触ってウロウロフラフラなのはどうしてなのかなぁ。
みっともないなぁ。

"部長と部下が、大切な商談に出かけた。これが決まれば会社にとって、そして部の実績にとって大きなプラスとなる。部下の綿密な段取りと、部長の決断の結果、見事商談は成立。会社にとってこれは大きなビジネスになる。二人の給料もきっと上がる。「やったー」
二人はニコニコとしながら肩をくんで仲よく会社に帰り、回りの人たちも「あ、うまくいったんだ」とニコニコ迎えたのであった"

こんな社会ならきっともっと暮らしやすいと思うんだけどなぁ。
だめかなぁ。どうかなぁ。ムリかなぁ。






なんでNo.11  学校で鮮魚の授業をいたしましょう (By 佐野 元)

そんなの憶えてどーするのよ、学校のみなさん、と今になって思う事がある。
例えば、エビはフィロソーマ幼生からプエルルス幼生となり海老になる。
それはいったい何語で、なぜそんな名前がついたのか、それを教えてくれたのなら理解できただろうけれど、高校では単に憶えろといった感じで授業に登場した。
だから僕は憶えられなかったし、興味ももたなかった。
おそらく、幼生の発見の歴史とか、甲殻類のけったいな生態とかそういったモノを含めて学ぶと、おそらくとても面白い学問がそこにあると思うのだが、僕の記憶ではそんな話を授業で聞いた憶えがない。
単に「憶えなさい」というだけだったと思う。
で、実際に今大人になってエビの幼生の話しなどしたことがない。
みんなも「きのう、プエルルス幼生のお刺身をいただいたの」なんて口にしたことがあるだろうか?
「フィロソーマ幼生も飼ってみるとなかなかかわいいですよ」と言ったりしてるのだろうか?
どこかにそんな人もいるかもしれないけれど、僕はない。(先生や研究者や学者は別にして)

さて、僕が社会人となっていまだに恥ずかしく思う事がある。
それは、サカナの名前を知らない事だ。
もちろん、サケとかブリとかタイとかサンマなんてメジャーなサカナは解るけれど、カマスとかサワラやサヨリなどB級のサカナはそれを見てもパッと名前が思いつかない。
思えばこういう事を学校で教えてくれてもよかったんではなかろうか。アタマの柔らかい時期に。
社会に出ると、人と食事に行くことなんてしょっちゅうだ。
年配の人と一緒に食事に行って、「このメバルの煮つけおいしいですねぇ」なんて、コミュニケーションが出来る方が、ゾエア幼生とかメガロパ幼生とかを憶えるより大切な事なのではないだろうか。

なんだかそういう生活感がポカッと欠如した中で育って行くのは、やっぱりヤバイんじゃないかなぁ。
そう、これからは学校は、もっと生活に根差した事を教えるほうがきっといい。
微分とか積分とかアズスーンアズとか八幡製鉄所とかそんな事もいいけれど、食べ物の名前とか、木や花や星の名前とか、謝り方とか頼み方とか、人ゴミの中での立ち話の仕方とか、そういったものも、キチンと教えるべきなんじゅゃないだろうか。
学校では鮮魚の授業があって、魚を並べて、「はいっ、これは何かなぁ。そう、サワラだね。じゃ、こっちの焼いたのを食べてみよう」とか。試験も必須科目で、「ブリは成長魚ですが、その名前をすべて書きなさい」とか。

「いえいえ、そういう事はご家庭で教えてください」などと言われても、もはや親自体が「そんなの習ってないからワカンナイ」世代なので、もう学校にお願いするしかないのだ。
だって、アナタ、学校は教える師のいるトコロでしょう?

と、目くじらたてなくても、まぁ、あんなに大きい証券会社がなくなってしまうご時世。
「勉強する=いい学校に入る=いい会社にはいる=生活安定」という神話もほとんど壊れかけているので、もうやみくもに記憶力とか知識とかが必要じゃなくなってくる時代がくるかもしれない。
あー楽しみ楽しみ、楽しみなのでシタビラメ。






なんでNo.12  シングルCD (By ナカトー)

シングルCDのパッケージの中に入っているプラスチックケースは、よく見るとちょうど真ん中から切リ離せるようになってます。
シングルCDが出始めた頃のパッケージには、たしかに、これを切リ離して『さらにコンパクトに』という丁寧な図解入リ説明も入っていたし、パッケージ自体も「小さくすること」を意識したレイアウ卜や作リになっていました。
しかし、今ではパッケージのデザイン自体そんな風になっていないものがほとんどで、GLAYのシングルCD「誘惑」「SOUL LOVE」に至っては、パッケージ自体がプラスチックになっているではあリませんか!!
それにもかかわらず、どうして未だに真ん中から切リ離せるようになったケースが使われているのでしょうか?(GLAYのもそうでした。)
まあ、簡単に折れてしまうものでもないし、そんなこと別に気にすることもないのですが、別のデザインもあってもいいんじやないかと…
ちなみに、KI/oon Sony Recordsが「MUSIC CATALOG」というサンプルCDをオマケにつける企画をしていて(要するに、2枚シングルCDが入っている)、私が知っている限りでは、それだけが中折れでないケースを使っています。






なんでNo.13  カンカンは泣いてるよ  (By Yuuko)

夏の仕事帰りの電車の中は冷房の涼しい風で、ついうとうとしてしまいませんか? 私は先日、大きな声で口げんかをしている人に遭遇し、その眠気を吹っとばされました。

「何が起きているのだろう・・・」そう思って声の方を見ると、男性が二人。一人は50歳のスーツ姿のおじさまで、もう一人は20歳前後の長髪の若者でした。
おじさまは若者を小馬鹿にした態度、若者は何やら怒っている様子。そして、こんな会話が聞こえてきました。

おじさま「私に何か問題でもありましたか?」
若者「立てて、隅に置けばいいんじゃないですか?」
おじさま「あの空き缶は私のではないんですけどねぇー!」
若者「だからって、蹴ることはねーだろう!」

ここで、二人の口げんかは終わりました。

おじさまの言い分「私が空き缶を電車に捨てたとでも思っているのか?失礼な奴だ」
若者の言い分「蹴って転がしたら誰かがつまずいてしまうことも解らないのか?」
二人の言い分はきっとこんな感じだと思います。
このあと若者は「まったく何を考えているんだ」という態度でおじさまをにらみつけ、おじさまは「今時の若者は・・・」という顔でしばらくにらみつけていました。

ここで今時の若者である私から、そのおじさまに一言。
自分が起こした問題でなければ、その問題に対しては何をやってもいいのでしょうか?私はこんな口げんかを見て、「若者、よくぞ言った」と思いました。みなさんはどう、お考えになりますか?

そして「車内に空き缶を捨てると事故の原因になりますので、お持ち帰りください」という言葉。これは誰でも知っていることだと思います。
それでも車内に捨てられている空き缶があるのは、どうしてなのでしょうか?






なんでNo.14  ゴミは大人の分別か?  (By Halpon)

「ゴミを分別する。」といわれて久しい。最近は駅や公園、もちろん自宅のゴミ収集所なども分別してゴミを捨てるようにゴミ箱がわけられている。
再利用の為に、また燃焼時に有害な物質をださないために今後さらに必要なことである。
ところが、一番困ってしまうのは我々が手にするそのほとんどの商品が過度の包装もしくは入り組んだ構造になっているため、なにをどう分別すればいいのかがさっぱり分からないことだ。
たとえば、ガム。あれは燃えるゴミ? 巻いている銀紙は燃えないゴミ? 良く分からない。
ましてや噛み終わったら紙に包むわけだからますます分からん。
その他にも、「ソーセージの端をしめてある金属の輪っか」なんかもどうやって解体するのかよくわからない。
こんな時も一瞬分別のことを思うが、たいがいの場合は「めんどくさ」とそのまんま捨ててしまう。この場合は、みたくれで質量の多いほうが優先されてどちらかのゴミ箱に捨てられるのだ。
これではいかんのだろう。
このごろ、少し教えてほしいと思うことがある。
パッケージに「外セロファンは燃えないゴミへ・箱は燃えるゴミへ」なんて書いてあって、さらに町に置いてあるゴミ箱にマークがついていてそれと同じものはそこに入れるとかがあるといいなぁと。

たぶんいろいろなそうはいかない理由があるんだろうが、そろそろこんな小さなところを実践しないといけないのだ。






なんでNo.15  はっきり言って番号なんかつけてほしくないのだ  (By 佐野 元)

国民に「背番号」をつけるという。やだ。なんかやだ。やだったらやだ。おまえらみんなの気持ち聞いたのか?とおもうくらいなんかやだ。

勝手につけられるのもやだ。自分で番号をえらべないのもやだ。

だって、例えば、

1112525=「イイヒトニコニコ」とか、
41510181=「ヨイコトイッパイ」とかならまだいい。

でも、

96410879=「クロウシテハナク(苦労しては泣く)」とか、
67494219=「ムナシクシニイク(むなしく死に行く)」に当たったらどうしてくれるのだ。
気分悪いじゃないか。

決めた人たち、まずこんな番号もらってくれるの?
ダルマに目を描くくらいに縁起をかつぐ人達なら、ヤだろう?
101000471=「トウセンシナイ(当選しない)」とかもらったらイヤだろう?

まぁ、どんな風に番号をつけるつもりかしらないけれど、
とにかく、なんかやだ。






なんでNo.16  知的勧誘を望む  (By 佐野 元)

インターホンの調子がオカシイ。ピンポーンとなってから受話器をとっても、相手の声が聞こえなかったりする。
それで、あるときドアを開けると、新聞の勧誘だった。あぁ、不覚。
ほんとに、新聞の勧誘は頻繁にやってくる。ツキに必ず2.3件は訪ねてくる。いったいどこにこんなに新聞屋さんがあるのだろうか。

さておき、その日もその勧誘のおっちゃんは強引にしゃべり出す。
「○×新聞ですが、お宅はどこの新聞をとってられますの?」
どうしていつもこれなのだろうか?
どこの新聞をとっていてもいいではないか。
その日は茶目っ気をだしてニッコリこう答えた。
「それはヒミツ」
するとちょっといままでに聞いたことの無い答えだったのか、一瞬おっちゃんはひるんだけれど、ひつこくまた聞き返す。
「そういわずに、教えてくださいよぉ。どことってますの?」
ヨソの事はいいではないか! だから、またこう答える。
「いやいや、それは秘密なんです」
ちょっとおっちゃん、ムカッときたのか、まゆげがピクッとしたけれど、あきらめてこう返す。
「ヒミツですかぁ。ははは。じゃ、ウチの新聞取ってくれませんかねー。サービスしますよ。いろいろつけますよ」
どうしてどうして、高度成長期の頃から相変わらずのワンパターンなのだ!
モノにつられるワタシではない。バカにするなっ。
「ほんと結構です。スンマセン」そういってドアを締めた。

ほんとにナゼいつまでたってもあのパターンなのだろう?
ドコの新聞をとっていてもいいではないか。モノでつらなくてもいいではないか。本当に自分の売っている新聞が「すばらしい。是非みんなによんでもらいたい」と思うのなら、どうしてその辺りで売り込みをかけてこないのだろうか?

もし、
「ウチの新聞とってください。早さと正確さはもちろんの事ながら、内容にはもう自信を持っておとどけします。例えば、毎週水曜のこの「世の中四面楚歌」というコラム。蛸小路秀麿さんの文章がたいへん面白いですよ。それから朝刊の連載小説「むくのき峠」、これもいよいよヤマ場に入ってます。来年の直木賞はこれで決まりとおもっとります。ベストセラーになってからお読みになるくらいなら、今からお読みになっておいた方がゼッタイにいいですよ。今とっていただければ、それまでのお話のコピー、さしあげますですはい。え? コンピューターを使ってらっしゃる? あ、それなら金曜夕刊の「コンピューターどろろん」の記事がオススメです。ぜひ当社の新聞を」
なんて勧誘があったら、僕などはちょっと心が揺れてしまうと思うのだけれどなぁ。

そんな勧誘。してください。お願いします。






なんでNo.17  やっぱりJAPANはNIPPONに  (By 佐野 元)

「日の丸掲揚」だそうである。「国歌斉唱」だそうである。先に僕の立場を明かにしておくけれど、僕は賛成でも反対でもない。というか、「どっちかなぁぁ」という「わかんない派」である。

あの旗や、あの歌がほんとにこの国のシンボルとしてふさわしいかどうかは別にして、「自国への誇り」を持つのは悪い事ではない。日の丸に関しては、デザイン的にはシンプルでコントラストがあってステキだと思う。
だけど、「昔の事」もやっぱり配慮するべきではないのかなぁとも思う。だれだって、お隣りの人がちょっと気になる事をすれば、ヤだもんね。
だから、どっちがいいのかなぁ、とわかんないのである。

でもね、「自分の国のアイデンティティ(よりどころとしての同一性)を持つ」というのも、やっぱり悪くはない。「国際化社会にむけて」これもわかる。「どこの国もそうではないか」というのも、もっともだ。

じゃあ、
じゃあ! なのだ!

「なんでNo.1」にも書いたけれど(理由はそちらを見てね)、
それを言うならば、この際、国際的にこの国の事を、「NIPPON」とよんでもらいましょうよ。近隣諸国に多少不安の念を持たれてまで、「国際社会上の自国のアイデンティティ」を貫くならば、やっぱり「JAPAN」は「NIPPON」と呼び直してもらうべきなのではないかなぁ。
だって、日本は「NIPPON」じゃないですかぁ。
内に向かって「旗と歌」を言うなら、外に向かってもカッチョよく「正しい名前で呼んでくれ」と言うべきなのじゃないかなぁぁ。

かつて国際的な名称を替えた国は、たくさんあるはずだ。昔のビルマだって今はミャンマーだ。
外に向かって、そういう表明をするべきじゃないのかなぁ。
国際化を言うなら、本当の名前を呼んでもらうべきではないのかなぁ。
自国のアイデンティティを持つとは、そういう事ではないのかなぁ。

それをあいまいにしておくならば、「日の丸」も「国歌」もいままで通りあいまいにしておいてほしいなぁ。

そうじゃないと、なんだか、
「外ではハッキリと発言できないくせに、家の中ではなんじゃかんじゃ理由をつけて家族をムリヤリ従えようとする、内弁慶オヤジ」
みたいでカッコ悪くてなんかヤなんだなぁ。

それが、ヤなんだなぁ。